「自分の内から力が出て行った」
(マルコ5章30節)

主の平和!

 この特別な環境のなか聖週間を迎えるにあたり、皆さんにメッセージをお送りしたいと思います。

 皆さんも聖週間のために準備を進めておられると思います。私は新型コロナウイルスの感染を思いながら祈るうち、マルコによる福音5章24節~34節にある物語が心に浮かびました。

 大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

 この女性は難しい病にかかり、その病のせいで人とのかかわりから締め出されていました。彼女は孤独で、苦しんでいました。イエスに触れたということは、彼女がイエスに望みをかけ、イエスを信頼したという大いなるしるしです。イエスに触れた彼女に、命と尊厳がよみがえりました。一方、イエスは自分から力が出ていくのを感じました。イエスがそうしようと望んだわけではなく、それと気づかぬうちに、イエスに触れたことで命が与えられました。

 今、感染を防ぐために、人と会ったり、話をしたり、触れ合ったりしないように呼びかけられています。でもここでちょっと私たちの内にある力について考えてみましょう。私たちに触れる人に、喜び、愛、希望、優しさを「感染」させているでしょうか?それとも悲しみ、憎しみ、利己主義、分断を「感染」させてはいないでしょうか?そんなウイルスを心の中に潜ませてはいないでしょうか。イエスから学びましょう。イエスは生まれながらの愛と命の運び屋です。

 昨年の教皇様の日本訪問のテーマを皆さんはおぼえていらっしゃると思います。「すべての命を守る」というすばらしいテーマで、教皇様はいろいろなことを語られました。このテーマに従って、私たちもカトリック信徒として、すべての命を守らなければなりません。そこで カトリック東京大司教様はこの厳しくも難しい判断を下してくださいました。

 教会では聖週間の典礼にあずかることができなくなりましたが、ひとりで、また家族とともに、祈ることでイエスと出会うことができます。祈りはイエスに触れ、イエスに触れられる道なのです。また祈りは他者に触れ、触れられる道です。こうして命と愛に触れることができるのです。

 先日、私は カトリック府中教会信徒会に向けて、メッセージを送りました。そのメッセージのタイトルは「あなた方自身も生きた石」で、ペトロの第一の手紙第2章 4節に基づくメッセージでした。たしかに私たちもイエス様に結ばれて、私たちが生きた石となります。この難しい時期に直面して、私たちは実際には教会に集まることはできないのですが、共同体として集まることができると思います。その形は祈りです。「生きた石」として、みなさま、ひとりひとりのお祈りをお願いいたします。私たちの共同体は生きています。集まらないけれども生きています。みなさまのひとりひとりの祈りのおかげで 私たちは共同体として神様の生きている建物となります。

 みなさま、有意義な聖週間をお過ごしになりますよう、どうそご自愛ください。

2020年3月25日
カトリック・ミラノ外国宣教会
アンドレア・レンボ神父

 


「イエスの服に触れる女」
(マルコ5章24節~34節)